PhD(博士課程)終盤の負のループから抜け出すためのサポート

オーストラリア国立大学(ANU)のインガー・ミューバーン(Inger Mewburn)教授が、大学院で勉学に勤しむ学生さんにお役立ち情報をお届けするコラム「研究室の荒波にもまれて(THE THESIS WHISPERER)」。今回は、PhD(博士課程)の学生が博士論文執筆の終盤ではまってしまう負のループについてと、負のループから抜けてもらうためのANUの具体的な取り組みを紹介しながら解説します。


私はよく博士号取得の終盤を「頭にバケツを被っている状態」に例えます。研究開発界隈では、この時期を「The Write Up(書き上げ)」と呼んでます。博士論文を完成させ、最終評価にたどり着くまでには膨大な時間を要します。

これまで後回しにしていたものを必死にまとめ、慌てて論文を完成させようと焦りだすと同時に、家族や私生活が犠牲になり、学生自身もどんどん孤立していくのです。

締め切りという圧迫感と同時に執筆作業の孤独感を味わうというのは、まさに、バケツを被って生きているようなものです。

このバケツを被っている期間が短ければ、たとえば6か月程度であれば、なんとか耐えられるでしょう。しかし、何年もバケツを被り続けている人が少なくないのです。そもそも、期限内に論文を提出する人は約20%。多くの学生が提出期限の延長申請をしており、さらに何度も延長を繰り返す人が多いのです。もはや、博士号の取得に5年かかることは、決して珍しいことではありません。

提出が間に合わない理由はさまざまです。指導者に恵まれない、論文執筆の難しさ、手に負えない量のプロジェクト、実験の失敗など。ただ、結局のところ、どんな理由だろうがそれは問題ではなく、提出できない結果生じる問題にどう対処していくかです。

懸念材料のひとつは、私が勝手に「負のフィードバック・ループ」と呼んでいるものです。

学生たちは、奨学金が尽きたり、長い低収入の暮らしが厳しくなってくると、研究の時間を削って仕事に就かざるを得なくなったり、出産のような後回しにできない人生の選択を優先します。健康が悪化する人、論文提出のストレスでさらに悪化してしまうような人もいます。このような負のループが、論文提出をさらに難しいものとしてしまうのです。

そこで、我らANUチームは、学生たちがこの負のループから抜け出し、健全な生活を送れるよう支援しています。

まずは「書く」ことからサポートしていきます。そもそも、研究論文というのは、最終段階になって死に物狂いで「書き上げる」ものではなく、「書きながら進める」ものです。つまり、論文執筆には継続して生産的に文章を書くスキルが必要なのです。とはいえ、これは、言うは易く行うは難しです。多くの学生が、博士課程在学中にほぼ毎日執筆はするものの、残った文章は論文というより膨大な言葉の沼のような有様になるのが現実です。

生産的に文章を書くスキルを磨くことは、負のループから抜け出すための第一歩だと言えます。我々の戦略の鍵となっているのが、メルボルン大学によって開発された Thesis Bootcamp (論文ブートキャンプ)というものです。Thesis Bootcampは、3日間で2万語を書くという短期集中型のライティング合宿です。このブートキャンプでは、後回しにするクセを脱して早く書くための様々な訓練が行われ、一度のキャンプでおよそ4人が20,000語の目標を達成し、参加者全員が少なくとも5000語、ほとんどの人が 10,000語以上書きます。

合宿によって、執筆がみんなで楽しくできるものとなり、論文の完成に貢献しています。

この論文ブートキャンプは世界的に話題になりました(Nature誌にも掲載されました)。ブートキャンプ参加者を5年間追ったの記録から、卒業間際に脱落する学生を減らすのに貢献した事実を数字で証明することも果たし、ANU大学理事会にとっても朗報でした。さらに、医学研究で使用される統計方法を用いて、ブートキャンプ参加者と、参加しなかった学生を比較したところ、ブートキャンプ参加者の中退率が参加しなかった学生よりも15%低いことが証明されました。

ブートキャンプ参加者の中退率が15%下がったことは大きな成果といえますが、実は、我々にとってブートキャンプは失敗だと考えていました。

そもそも論文ブートキャンプが必要だったということは、生産的に効率よく書く術をもっと早い段階で習得していなかったということです。負のループから抜け出すことよりも、負のループが起きないようにすることが大事なのです。さらにデータで分かったことは、ブートキャンプも、すべての人に役立つわけではないということでした。ブートキャンプに参加した学生の約3/4は無事に卒業をしました。残りの人はブートキャンプを継続したものの、終えることができない学生も多くいましたし、何年もかかる人もいました。このブートキャンプは、一部の学生にとっては、かえって負のループに追い打ちをかけていたということを認めざるを得ません。

では、負のループにはまってしまう学生をどうサポートするのか?

まず、負の連鎖が起きないように必要なスキルを磨いておくことです。ANUの支援のもと、ブートキャンプモデルを基にしたライティングスキルを磨くプロジェクトを始動し、最終的に以下のような3段階のライティングブートキャンプができあがったのです。

ここでは研究計画を文章化する基礎的なスキルを磨きます。文章の構成や、文章全体を見出しなどに割り振って膨大な作業を小分けにする方法を学びます。

計画に基づいた執筆が身につくことはもちろん、設定した目標に向かって時間を計画的に使うことを訓練することで、結果的に生産的に書くことができるようになります。また、検索エンジン最適化(SEO)など、論文が世の中の目に留まりやすいように書く方法も講じています。

3週間、毎週金曜日に書籍の提案書を書き、その間の時間は市場や出版社に関する調査をします。このキャンプでは自分の専門分野以外の様々なジャンルにも触れ、知識を増やし、学術界以外の業界でも影響力のあるものを作り上げることを目指します。

昨今のパンデミックによりブートキャンプをオンライン化しましたが、満足いただいているようです。このブートキャンプ開始から2年が経ち、超特急で2万語を書くという当初の「論文ブートキャンプ」の需要が減ってきたことからも、この3段階ブートキャンプが成功していると言えるでしょう。

さて、「緊急論文ブートキャンプ」に代わるものとして、ラ・トローブ大学のAccelerated Completions Programに基づいた「The Home Stretch」という新しいプログラムを開始しました。このプログラムは、緊急性に関わらず、論文を仕上げようとしている全ての学生を対象としています。

例えば、

  • 順調に執筆しているが、誰かと状況を共有したい人
  • 論文執筆自体にも苦戦しているが、それ以外の理由でなかなか完成できない人
  • 仕事、家庭環境、体調など、論文執筆以外の様々な問題を抱え、負のループにはまっている人

など様々な人が参加しており、Home Stretchに登録した学生が、Microsoft Teams上でカレンダー、チャット、動画などでそれぞれの目標やその他参考情報などをシェアできるようになっています。

さらに、以下のような様々なオプションも追加しました。

さらに、変わった試みとして、「他にお手伝いできること、ありませんか?」と聞いてみました。

場所、時間、資金などの支援の必要性に目を向けずに、学生は執筆の手伝いが必要と決めつけてはいけません。大学には、ある程度のリソースがあります。少し思考を変えれば、負のループから抜け出せる学生も多いのです。

例えば、Home Stretchの参加者の中には、キャンベラから引っ越し、キャンパスの研究室から離れた人もいます。また、在宅勤務に切り替えた家族とホームオフィスをシェアしている人もいます。長く続くパンデミックで閉鎖的になった暮らしにうんざりしている人が大勢います。

そこで私たちは、校舎内の空いている部屋に拾い集めた家具を設置して、「The Garret」(机が1つある小さな部屋)と「The Writers’ room」(机が2つと論文に関する本が置かれた小さな図書コーナーがある部屋)の2つの部屋を作ったのです。

論文執筆関連本の本棚がある「The Writers’ room」

この「Home Stretch」プロジェクトは始まったばかりですが、負のループから抜け出すためのサポートが本格的に開始できたと思っています。抜け出すためには、大学からの的確な支援が必要なのです。みなさんも支援を受けることは決して恥ずかしいことではないことを知ってください。

「善人のみが恥を感じるものだ」とかつて私のセラピストが言ったように、恥とは、人間にとって大切な感情です。最近、政治家の恥知らずな騒動が多く見られるのは確かですが、負のループの話に限れば、恥は全く無意味な感情です。博士課程に進学できた人なら、博士号を取得できるはずです。そして大学は、学生たちの博士号取得を応援するところであり、想像以上に様々なサポートを用意しています。

もし、あなたが負のループにはまってしまっているのであれば、一日も早く抜け出せるよう祈っています。そして、些細なことでもいいので、困ったらメールで相談してください。

インガ―より

PS: 今、オーストラリアは選挙期間中ですが、ぜひ選挙に行ってご自身の価値観に合った政党や候補者に投票しましょう。私は長く気候科学者とともに仕事をし、人々の気候問題への関心の低さに絶望する彼らの話を聞いてきましたので、投票するだけでなく、自分の価値観に基づいて行動することにしました。1年以上前から、ACTで緑の党のために戸別訪問や集会の企画などのキャンペーンを行ってきました。活動は無償ボランティアですが、選挙活動にはお金がかかります。ポスターの印刷や広告の掲載などは費用がかかります。そこでお願いしたいのですが… このブログが少しでもお役に立ち、緑の党に賛同していただけるようなら、コーヒー1~2杯の額(5~10ドル)を寄付していただければ幸いです。詳細はこちらから。ご検討いただき、本当にありがとうございます。

 

原文を読む:https://thesiswhisperer.com/2022/05/04/the-home-stretch/

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