博士課程終盤に「ダメ人間」の症状が出てしまったら

オーストラリア国立大学のインガー・ミューバーン(Inger Mewburn)准教授が、大学院で勉学に勤しむ学生さんにお役立ち情報をお届けするコラム「研究室の荒波にもまれて(THE THESIS WHISPERER)」。人は得てして何らかの理由で追い詰められると、簡単なことがうまくできない「ダメ人間」状態に陥いってしまうことがあります。自らも経験者であるミューバーン准教授が原因を考察し、そんな状態と上手く付き合っていく方法を話してくれました。はたして、その対処法とは?


PhDの研究を行う間、研究は上手くこなしているのに、それ以外のことがほとんど何もできなくなってしまうことが起こることを、私は「Loopy la-las」と名付けました。

私自身に「Loopy la-las」が起こり始めた日のことは忘れられません。とにかく、簡単なことができなくなってしまい、自分が「ダメ人間」になったと感じたのです。

2008年のある日、フーコーの本に没頭していたところに、大学のリサーチ・アドミニストレーターから電話がかかってきました。私が提出した学会出席の助成金申請書に不備があり、名前の記入ミスがあったことを知らせてくれたのです(ありがとう、ジェーン!)。メールをチェックして、彼女が申請書を処理できるよう返信すればいい――だけですよね?

私はログインして申請フォームをダウンロードしました。そして、何をしようとしていたのか理解しようと、フォームを凝視しました。

私は、苗字と名前の両方を記入させるフォームの形式について考えはじめました。イギリスが自国の名前の付け方を植民地にも浸透させるため、植民地主義の下でランダムに姓(名字)を与えていたプロセスに思いを巡らせ、さらに家父長制と、母や自分の名前に比べて父や夫の名前がどのように提示されているかを考えました。そこから、そもそも「名前」とは何なのかについて考え始めてしまったのです。

ダメダメ、何やってるの!私は頭を振って自分の名前を書き込みました。それからさらに3分間、自分の名前のスペルが正しく書けているのか疑って自分の名前を凝視してから、不安なままフォームを保存してジェーンに返信しました。

すると今度はジェーンがわざわざ電話をかけてきて、私が添付ファイルを付けずに返信メールを送っていたと教えてくれました。彼女は大笑いをして「まったくあなたらしいわ、インガー。みんなにフォームに記入してもらう作業で私の1日の半分はつぶれるのだけれど、頭が良いはずの博士課程の学生は、どうしてこんな簡単なことができないのかしら?」と言うのです。

ジェーンの言葉は、私の心にずっと響いていました。なぜなら、私はその後半年以上、この「簡単なことができない」状態に陥ったからです。単純なことを行うのに苦労する一方で、信じられないほど複雑で抽象的な概念について考え、それについて書くことは1日中続けていても全く苦にならないのに。物事によってそれを処理する頭の回転が異なる状況は奇妙で、自分が「ダメ人間」になってしまったのではないかと思いました。しかし、博士課程の学生と接してきて、これが珍しい状態でないことが分かりました。そして、このような状態になるのは論文執筆プロセスの副産物なのではないかと思うに至りました。まさに『フラバー うっかり博士の大発明(原題: The Absent-Minded Professor )』(訳者注:ウォルト・ディズニーのクラッシック映画で、実験に没頭すると他の事を忘れてしまう教授の話)のように、研究者の「うっかり」はどこからともなくやって来るものではないのです。(TV tropesの情報によればこのタイプの「うっかり者」キャラクターは昔からいたようです)

とはいえ、この状態は悪いことばかりではありません。自分の研究についてたくさんのアイデアが閃いて、脳内でつながっていった感覚を覚えています。素晴らしい体験でした。ノートにはさまざまなアイデアがあふれ、文章がどんどん沸き出してきました。問題は、創造性が溢れ出てくるのと同じタイミングに、別のことへの集中力が全然働かないことです。

私自身、さまざまな場面でこの「うっかり者」が出現するのを経験してきました。鍵を何度も失くしてしまうようなものから、買い物リストや子供の遠足の提出書類、助成金申請書、約束時間などに関することを忘れてしまうといった深刻なものまでありました。私のPhDの経験上最もひどかったのは、他人との約束を忘れてしまうことでした。電話もメールも返さず、人の誕生日を忘れ、仕事に遅刻するような信頼できない「ダメ人間」のようになってしまったのです。

PhDの間の「うっかり」モードの時、注意力が無くなっていることが原因で、大したことではないはずの健康問題を深刻化させてしまうことがあるのは指摘するまでもありません。キッチンでナイフを扱う際ですら注意が必要です。私たちは何年も前から博士課程終盤の学生を対象に論文ブートキャンプを開催していますが、こうしたブートキャンプの参加者はPhDの研究を始めたばかりの学生よりも怪我をしやすかったり、災難に遭いやすかったりすることに気付きました。

私は、首都キャンベラがロックダウンされたときに、書類に必要事項を記入するような単純なことが困難になりました。キャンベラでは1年以上、1人も新型コロナウイルスの感染者が出ていないので、ロックダウンで注意力散漫な状態に陥った経験は少ないのですが、やはり平常時と同じ状態ではいられませんでした。ロックダウンは、博士課程終盤のバケツに頭を突っ込んだような閉塞感と同様の感覚をもたらしましたが、博士課程の時のような締め切りの緊迫感や、独創的なアイデアが湧き出してくるようなスリルはありません。それでも、同じように鍵やナイフといった物への注意力が薄れるという状態になってしまいました。

論文の提出日が近づくにつれ、他のことが手に付かない状態はひどくなっていくということを実感しました。博士課程の始めから時間の進み方は同じなのに、課程の終盤になると時を刻む音が大きくなって他の音をかき消すようなイメージです。自分の中で博士課程の研究が占める割合がどんどん大きくなり、起きている時間の思考を占領し、他の重要なことを押しのけてしまうのです。

なぜ、このような状態が起きるのでしょうか?それは、認知的負荷(cognitive load)と関係があるかもしれません。

私は専門家ではありませんが、情報によると、脳は短期記憶の中から限られた数の情報しか処理できないそうです(4~7個)。短期記憶は、書類に必要事項を記入したりする際に必要な記憶です。これに対して長期記憶は、関連する物事を結びつける思考の枠組み、「スキーマ」と呼ばれる認知力や理解力、問題解決力といった構造が複数の要素を統合的に扱うことによって可能となるものです。言い換えると、私たちは長期記憶の多くを「自動化」することで、短期記憶の場所を作っているのです。

これは私の思いつきですが、博士論文を書くには、アイデア、理論、データの間に関連性を持たせることが重要で、それは典型的な長期記憶の作業です。

そして、長期記憶に関わる作業に多くの時間を割いていると、短期的な作業が苦手になってしまうのかもしれません。あるいは、2つを切り替えるのが困難になるのかもしれません(これについて誰か博士論文を書いてくれればいいのですけど)。こう考えると、PhDのときには深く考えることが必要なので、「簡単なことができない」となるのは逃れられない副作用かもしれません。治療ができるものではないのです。上手く付き合っていくしかありません。

では、他人に迷惑をかけず、鍵をなくしたりせずに、この状態とどう折り合っていけばよいのでしょうか?

以下は私のアイデアです。

  1. メールの受信箱を整理する。

無秩序な状態であれば、やるべきことを把握できなくなってしまいます。to-doistや、workflowyThingsOmnifocus(個人的にお気に入りです)などのツールを使ってみてください。重要なのは、メールで届くタスクを別のシステムに移すことです。受信箱を「やることリスト」にしないでください。物事をリスト化することは、短期的な思考能力を高めることにつながります。

2.買い物や家事においてもアプリなどを利用してリストを一括管理する。

私は「Anylist」を使っていますが、これには食事のプランナーも付いています。買い物リストを家族と共有することで、家事の負担を減らすこともできます。牛乳がないなんて知らなかったなどとは言わせません。

3.箇条書きのノート術「バレットジャーナル(Bullet Journal)」で仕事の予定とクリエイティブなアイデアを一箇所に記録する。

「バレットジャーナル」は、ADHD(多動性症候群)を煩っているライダー・キャロル(Ryder Carroll)が認知処理の補助ツールとして考案したもので、やることを箇条書きにしてタスク管理をするツールです。使い始めたばかりですが、私はすっかりこのノート術のファンになってしまいました。ジェイソン・ダウンズ(Jason Downs)と始めたポッドキャスト「On The Reg」でも、バレットジャーナルについてお話しています。私自身がどのように使っているかいつか記事にしようと思っていますが、On Circulationというブログサイトにタリカ・ライナージ(Tharika Liyanage)が「Bullet Journaling during your PhD」という素晴らしい記事を投稿しているので参照してみてください。

4.個人的な約束や予定は、できるだけルーティーン化する。

私は、美容院に行ったら次の予約を入れてきます。スキンチェック(肌診断)や乳がんの検診、定期的な血液検査なども同様に予約します。博士課程のときに、体調管理に気を付けなかったがために調子を崩し、悪循環に陥ったことがあるので、今では習慣付けています。セルフケアは大切ですし、そのためにはスケジュール帳が必要です。

5.簡単なことができないような状態に陥った時には、そのことを身近な人に知らせて助けを求める。

投げやりにならずにこのブログ記事を見せて、あなただけがそんな状態になるのでない、誰にでも起こり得ることだと知ってもらいましょう。周囲があなたに何かをさせようとしたら、何度も念押しする必要があるだけなのに、忙しいだろう思って遠慮されているのかもしれません。遠慮せず口出ししてもらって、周りの人にあなたの状況を助けてもらうことで、全体的な認知的負荷を軽減してもらいましょう。

自分の状態と折り合いが付けられるように頑張ってみてください。現在、ロックダウン下にいる人たちはお互いに助け合いましょう。このブログ中に付けてあるいくつかのリンクを参考に、ツールなどを試してみるのもお勧めします。

インガー

原文を読む:https://thesiswhisperer.com/2021/08/04/the-late-stage-or-lock-down-loopy-la-las/

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