フィードバックがつらい理由

オーストラリア国立大学(ANU)のインガー・ミューバーン教授のコラム「研究室の荒波にもまれて(THE THESIS WHISPERER)」。今回は、研究者であれば避けて通ることのできない「フィードバック」について。教授陣に酷評された傷がまだ癒えない博士学生に向けて先輩研究者が書いてくれた手紙をご紹介します。


この記事は、博士審査の研究発表で酷評された直後で、傷がまだ癒えていないPhD学生に宛て、ANUの経験豊富な研究者が書いた手紙です。

その学生自身がこの手紙を私に送ってくれて、素晴らしい内容だと感銘を受けたので、差出人である先輩研究者と学生本人に公開の承諾をいただきました。博士課程で、みんながこのような洗練された思慮深いフィードバックをもらえると良いのですが…。皆さんにも読んでいただければと思います。

口頭試問を無事終えた○○さんへ
審査の通過、おめでとう。しかし、君の表情を見ると、あまり勝利の達成感は感じていないようでした。教授陣はそれぞれの使命を果たすかのように、厳しく酷評されましたね。自分の時を思い出します。アカデミアでの勝利はなぜいつも敗北感を伴うのだろうか?

本当に、変な話ですよね。

我々はみな、承認欲求があります。でも、この学術界という世界では、笑顔で金星を授与されることは、まずない。その代わりに「フィードバック」を与えられます。僕らはフィードバックを贈り物のように感謝して受け取るべきだとされているが、否定されているように感じるものです。自分の仕事を徹底的に批判されることほど苦しいことはありません。学術界の人たちはフィードバックを適切にする方法を正しく教えられていないため、危なっかしく、矛盾して、とげとげしいやり方になっているのです。博士課程の学生側も、フィードバックの受け取り方は教えられておらず、従順に頷くしかない。学者を志す学生は、他人に素直に従うだけでなく、自分にとっても耳の痛いフィードバックを建設的に受け留める方法を学ぶことが大切です。“To make a silk purse out of a sow’s ear.”(悪い素材から良い品を得るという意味の慣用句)といったことです。慣用句は得意ではないですが。

では、どう受け取れば良いか?フィードバックを全て取り入れたり、採用すると約束するのは、絶対にやめておいた方がいい。いったん持ち帰って、自分の研究をよくするのにどの部分が適しているかを吟味してください。一部は非常に役立つかもしれないが、多くはあまり役立たないか、すぐには意味がわからないかもしれません。フィードバックが的外れなことはよくあります。でも、コメントが誤っているように見えるからといって無視しないでください。レビュアーが読んで誤解するような点があったか、その人の思考プロセスをたどってみてください。読者が正しい道から外れないように何か工夫できることはあるか?要するに、フィードバックが正しいものであれ、まったく的外れであったり少しズレたものであれ、それを論文の改善の糧とすることです。

個人的には、自分や自分の研究に誰かが向き合い、時間と知的エネルギーを費やして行ってくれるフィードバックは、ものすごく貴重な言葉だと思うようにしています。批判的なフィードバックは、成長の機会であり、実は最高のものです。自分がやろうとしていることを理解し、どこで的外れになっているかを指摘するために、誰かがその人の知的ギアを切り替えて取り組んでくれるというのは、刺激的です。指導教官が諸手を挙げて「はい、素晴らしい」と言う時は、早く終わらせたいだけでしょう。また、よくある「こんな考え方もありますね?」というような当たり障りのないコメントは、単に時間を埋めているだけかもしれません。

いちばん最悪なフィードバックは、沈黙です。それは、その発表がまったく考えを刺激しなかったことを意味します。

私がフィードバックを受け取る時、すばやくそれに目を通します。必然的に痛みや怒りを引き起こすものがあるかもしれませんが、コメントをあまり注意深く読むことは避けます。そして、すぐにそのフィードバックをくれた人/編集者に感謝のメールを送り、審査の時間が非常に有意義であったことと、少し考えてから返信することを伝えます。

…なんていうのは嘘です。

本当は、ふさぎ込み、歯を食いしばって怒りや悲しみに打ちひしがれます。私はそれを「嘆きのサイクル」と呼んでいます。その時は嘆きに集中し、フィードバックについて話すことはせず、それについてしっかりと意見を形成することもしません。この嘆きのプロセスには数日、数週間、または数か月かかる時もありますが、最終的にはそこから起き上がり、フィードバックを開き、しっかりと読みます。本当に本当に心の準備ができたときに、フィードバックを開き、各コメントに番号をつけ、それに対する返答をまとめます。このアドバイスと提案の寄せ集めを何か益となるものに変えていくためには、少し時間をかける必要があるのです。

私自身は、博士課程が単に知恵を章ごとに書き留める場ではないということを理解するのに何年もかかりました。博士課程とは、自分の人間性を書き換えることを要求される個人的な訓練の場なのです。自分自身を強化し、自分なんかダメだとささやく心の声をコントロールしなければやっていけません。打たれ強さを鍛えなければならない。打たれ強さはあなたを冷静に保ち、「パブロフの犬」のような反射的な承認欲求から自分を解放します。この点に関しては、誰もが自分に合った方法を見つけ出さなければなりませんが、自分の研究の感情的な側面、つまり研究の仕方を決定することになる、研究に対する自分の感情に向き合うことは、実際に博士課程を終えるために不可欠なのです。

以下は、私と友人たちがPhDとポスドク中のさまざまな段階で実践した精神を鍛える方法のリストです。

  • 自己啓発本に没頭し、、特に認知行動療法の要素が含まれている本に没頭する。はい、本気で言ってます。
  •  大学院の活動、ワークショップ、ライティンググループなどに積極的に参加する。PhDは社会的な営みの一部であり、孤独ではないことを実感できます。
  • 成功をともに喜んでくれる心強い仲間と一緒にいること。足かせとなる有害な人間関係を積極的に排除すること。
  • 指導教官とは別の良い指導者を見つける。これにはPhDを持つ社会人も含まれるかもしれません。彼ら自身も、人生の上り坂や下り坂、回転木馬のような堂々巡りの中で何年も過ごしてきました。
  • 自分の健康を優先する。午後5時まで何もしなかったために夜中2時まで働くような生活は、健康を害します。
  •  瞑想を始める。
  • 日常的に運動する。はい、本当に、毎日です。Just Do It。
  •  ルーティンを作る。午前10時から12時まで執筆、午後1時から2時までランチ、午後2時から3時までセミナー、午後3時から5時まで執筆…など。それを守りましょう。

私が特に役立つと感じたことのひとつは、他の創造的な営みに自分の研究活動を重ねることです。何かを消費するたびに(例えば、歌、ラジオ番組、読み物など、なんでも)あなたの研究と同じように、それが愛され、労力をかけて世に生み出されたことに思いを馳せます。そうした作品が数多く存在するということは、一種の奇跡です。それは、華やかな肩書や、高い給与、賞、拍手喝采がなくても、創造的な探究に自らをささげ、何もない所から絵画や文章を生み出す人々の存在を語ります。彼らの勇気と決意に驚嘆し、彼らが創造するというシンプルで研ぎ澄まされた欲求にいかに身をゆだねてきたかを感じてください。 今やあなたも、彼らのうちの一人です。

最後に、打たれ強さは、自分に価値があることに気づいたとき生まれます。そして、論文の出来栄え如何に関わらず、あなたには価値があります。あなたが博士号を獲得しようがしまいが、あなたという人間が存在すること自体に価値があるのです。

博士課程は大変です。でなければ、みんな博士になるでしょう。修士課程を含むそれまでの勉強とは比べ物になりません。博士課程を経ると、別人に造りかえられるぐらいに砕かれるものです。それはある意味、4年間の仕込みのような時間と言えるかもしれません。それを乗り越えた人間は、より強く、豊かな人になりますが、しばしば学術的な知恵と引き換えに、人格を求められます。学者の一員になるには、自分自身の人間形成にもエネルギーを注ぐ必要があるのです。

ますますのご活躍を祈って、
XXXより

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