世界的なパンデミック下でプレプリントの利用が急拡大

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大にともない、医学研究論文や関連記事の数が急増しています。ウイルス感染の急拡大は人々の命と健康にとって重大な問題ですが、学術出版界は思わぬ恩恵を受けることとなりました。ロックダウンや移動制限により、学術出版、特にバイオサイエンスや医学分野におけるオープンサイエンスの重要性が再認識されたのです。世界中の研究者が、ウイルスの遺伝配列、疫学的情報、投薬による症状の変化などのデータを共有するようになりました。必要性が革新的な変化を後押ししたのです。その結果、お互いの状況を確認し合い、手元にはない知識や情報にアクセスすることができるようになりました。効果的なワクチンや有効な治療法の開発を支援し、パンデミックの影響を理解するための急激な情報ニーズに対し、世界の学術界は驚くべきスピードで対応しました。例えば、新しいコロナウイルスの人への感染が確認されると、2020年1月10日には中国の研究者が、世界的なインフルエンザウイ ルスの共有データベースGISAID(Global initiative on sharing all influenza data)にこのウイルスのゲノム配列情報を公開し、そして1月中旬までには、ドイツと他のヨーロッパ諸国と香港の研究者が、新型コロナウイルスを検出するための診断テストの詳細を公開するに至りました。過去のインフルエンザやSARSの流行時には考えられなかったスピードです。

一気に進んだコロナ関連論文の共有化

このように、論文や情報が共有されるスピードは格段に進歩しました。学術雑誌(ジャーナル)のNatureは、コロナ関連のすべての研究論文を自由に利用できるように取り組むとともに、研究者には関連研究を迅速に公表し、共有することを推奨しています。論文公開に関して論争の的となっている学術出版社エルゼビアも「Novel Coronavirus Information Center」を開設しコロナウイルス関連の論文を無料公開しています。医学雑誌ランセット(Lancet)も「COVID-19 Resource Centre」を開設し、COVID-19でジャーナルに掲載された論文や記事を提供することで、医療従事者や研究者を支援しています。このサイトにはランセットジャーナルに掲載されているCOVID-19関連の論文がまとめられており、無料でアクセスすることができます。

エコノミストによれば、COVID-19の感染爆発初期の80日間だけで、コロナウイルスに関する490の新しい記事が発表されたとのことです。さまざまな出版社が、通常であれば長い時間を要する査読のプロセスを加速させ、少しでも早く情報を共有できるように努めています。と同時に、査読なしにオンラインリポジトリを介して論文を発表するプレプリントが注目されるようになりました。プレプリント論文は学術出版社と専門家による査読を受けません。その代わりに、掲載論文を読むすべての人によって精査されるものです。発表者は読者によるコメントを確認することができるので、原稿を更新したり、間違いを指摘された場合には撤回することもできるのです。1991年から使用されている数学や物理学などの論文を収めたarXivのように、ある分野ではプレプリントが広まってきていたものの、研究者個人や企業(製薬会社など)に直接的な影響を及ぼすことのある生物医学分野では、あまり積極的に進んではいませんでした。しかし今では、生物学のプレプリントサーバーbioRxivと臨床研究者のためのプレプリントリポジトリmedRxivには計5318本(2020年6月17日時点、内訳はmedRxivに4279本、bioRxivに1039本)ものCOVID-19関連の記事が公開されています。今回のパンデミックにおいては、2020年1月26日にWHO(世界保健機関)が「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)WHO公式情報特設ページ」を開設したことからも、プレプリントが政策決定の議論にも影響を与えている可能性があることを示唆しています。

プレプリントサーバーに掲載された論文が、後日査読付きジャーナルに投稿され、掲載に至ることは多々あり、最近の研究では、2017年以前にbioRxivに掲載された印象的な論文の67%が最終的には学術ジャーナルに掲載されていたことが示されています。また、他の研究では、プレプリントに掲載された論文と、ジャーナルに掲載された最終版とに対する他の研究者による科学的評価の違いは、5%以下だったことも判明しました。

プレプリントの課題

ただし、課題も生まれています。プレプリントへの投稿や利用が増加する中、スピードを重視する反面、正確性に疑問が持たれるケースもあります。通常であれば、投稿された論文は専門知識を有する研究者が見直し、実験方法や結果についての評価を行う「査読」を経た上で公開することにより、一定の品質を保証しています。ところが、プレプリントにはこの査読がないため、誤ったデータや情報が公開されてしまう危険性があるのです。プレプリントが一層普及すれば、研究に関わる情報が漏洩して困ることが起こるかもしれません。COVID-19が中国研究者によって作成されたという陰謀論や、新型コロナウイルスが宇宙由来だとの主張もありました。そのような論文の多くは早々に撤回されるか、誤った内容であることが証明されていますが、運悪くメディアに取り上げられて騒動を引き起こすこともあり得るのです。論文の品質は非常に重大です。とは言っても、査読付きジャーナルでも発表された論文に問題があることはあり、再現性の問題はすべての出版モデルにおいて共通であることはよく知られています。また、通常のジャーナルであれば、一度掲載された論文の撤回には時間がかかるものですが、プレプリントであれば即時対応が可能です。さらに、前述したようにプレプリントに掲載された論文は、査読よりも広い範囲、つまり学術コミュニティからの精査を受けることになるので、研究者にとってのメリットとなります。研究者がプレプリントを予備的なものと認識した上で活用すれば、学術出版全体にも好影響を及ぼすでしょう。いずれにせよ、学術出版は数々の課題を抱えており、紆余曲折しながら進んできました。今回のパンデミックへの緊急対応が引き金となり、多くの出版社、ジャーナルが原稿の受領から出版までに要する時間を短縮したり、無料公開を行うなどの変革を進めていることは確かです。

学術出版はどう変わっていくのか

プレプリントは完璧ではありません。しかし、プレプリントサーバーは、重要な科学的知見が速やかに利用可能とし、研究者や政策決定者などに自由なアクセスを提供します。多数の課題があるとはいえ、研究成果をオープンにする利点は大きく、特にプレプリントサーバー側で公開する論文に対し、査読付き論文と同程度の信頼性を保証するための合理的処置を講じている場合であれば、その公開性と迅速性は大きなメリットとなります。プレプリントサーバーは、論文の品質を判断できる理由を説明するか、材料を提供すべきでしょう。例えば、BioRxivとmedRxivは2段階のスクリーニングチェックを行っており、さらなる審査が必要かどうかをBioRxivは48時間以内に、人の健康に直接関わる可能性の高い論文を扱うmedRxivは慎重に、とはいっても4-5日以内には判断しています。その上で内容によっては査読付きジャーナルへの投稿を示唆することもあるようです。
オープンアクセスやプレプリントといった学術出版界では比較的新しい形態が広がるにつれ、伝統的な査読のプロセスにおける課題が指摘されてきていましたが、今回のパンデミックという差し迫った危機的状況で迅速な研究を実現させるためには不適であることが、より明確になりました。しかし、同時にプレプリントの価値と使用に関する課題についての議論も進行中です。では、今回の事例が例外的にパンデミック下でのみ終わるか、今後も継続するのか―――情報が自由に、かつ迅速に共有される、知識が集約することは科学の進歩にとって重要です。近年の歴史では全例のないCOVID-19パンデミックによって世界が変わっていく中、学術出版の方法、さらには研究者が研究結果を公開しデータを共有する方法も大きく様変わりすることでしょう。良い方向に進むことを願っています。

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