研究職に進まなくてもPhD課程を有意義に過ごすには(1)

オーストラリア国立大学のインガー・ミューバーン(INGER MEWBURN)准教授が、大学院で勉学に勤しむ学生さんにお役立ち情報をお届けするコラム「研究室の荒波にもまれて(THE THESIS WHISPERER)」。「研究職に進まなくてもPhD課程を有意義に過ごすには」と題して、PhD(博士課程)の問題点やあるべき姿を本音で語る3部作コラムの1本目。コロナショックで世界が変わろうとしている今こそ、PhD課程を有意義に過ごしたいものです。研究者以外のキャリアを視野に入れている方は必見です!


高学歴就職難が問題となっています。読者の中には、求職中の人や今後どうやって食べていけばいいのか真剣に悩んでいる人もいると思います(ご苦労、お察しします)。新型コロナウイルスの影響で、来学期の授業も予定通り開講されるか、そうだとしてもオンラインなのか対面授業なのか?はたまた希望のコースが定員を満たせずキャンセルされたりしないか?先が見通せない状況が続いています。

将来に対する不安はあらゆることに影響する

不安要素が多すぎてPhD課程の研究計画を立てられず、集中することも難しい状況に置かれているのではないでしょうか。このような状況下でPhDをとる価値があるのか?と改めて自問している人もいるでしょう。学術界は競争が激しく、研究者としてのポジションを獲得するのは狭き門です。PhD取得後の就職を考えると、不安と恐れ、落胆、時には怒りさえこみ上げてくるかもしれません。研究職以外の可能性について考えてみても、なかなか具体的なイメージがわかないし、自分が持っているさまざまな専門知識やスキルが、果たして一般社会で通用するのかどうか自信が持てないと感じている人も少なくないはずです。

将来の就職についての不安を抱えているところに、このコロナ禍が重なり、絶望感を感じていたりしませんか。朝は起き上がることができず、身だしなみに気を配る余裕などない、という人もいるかもしれません。

これは、そんなあなたに向けたブログです。

私は、まだ希望が残されていることを知ってもらいたい、そして挑戦することをあきらめないで欲しいと伝えたくてこのブログを書いています。ただし、最初に断っておきたいのは、PhD課程での過ごし方を変えない限りPhDという学位の価値はない、ということですアフターコロナの世界に向けて大学は変わらざるを得ませんが、それを待っている余裕はありません。私たち自身が変わるのです。

思えば変わる――自分が変わろうと思えば自分を変えることはできる

今こそ変わらなければ駄目なんだと言いたくて、今回はいささか過激なタイトルを付けましたが、私自身はまだPhDという学位の価値を信じています。私たちの調査では、たとえ研究関連の職に就けなかったとしても、他にも多くのチャンスがあることが分かっています。なので、きちんとPhDを取得した方がいいと思っていますし、PhDへの進学を考えている人は、是非そのまま進学した方がいいと思っています。世界は、未だかつてないほどに、研究で培ったスキルを求めています。まさに、研究スキルを有する人材(あなたです!)が必要とされる時代が到来しているのです。考えてもみてください。PhD課程には頭がいいだけではなく、創造性に富んだ人が集まっています。PhD課程にいる間は、研究に没頭できる潤沢な時間と、研究に利用できるさまざまな施設・設備があり、しかも専門家のアドバイスを受けながら未知の世界を探求できるという、理想的な環境が整っているのです。そして、簡単には解決できない大きな課題に取り組むチャンスも与えられているとなれば、まさしく自分自身が成長するチャンスじゃないですか。

大学という所は、PhDの研究を行うのに最適な場所です。図書館、実験室や研究室などさまざま施設が利用できるだけでなく、教官、研究員、技術サポートスタッフからいろいろな面でサポートを得ることができます。大学には豊富な知識があり、あなたはほぼ無制限にこれらの恩恵を受けることができるのです。

一方、PhDは大きな可能性を有しているにもかかわらず、院生が指導教官に多くを期待され、言われるがまま働き、意味のないことにさえも多くの時間を費やしてしまうことが問題となることもあります。

指導教官からの期待が大きすぎてプレッシャーとなってしまうこともあります。象牙の塔の独特の社会統制システムを「宗教的なカルト集団」と揶揄されることすら……。指導教官が学位取得まで導いてくれると妄信するあまり、PhD課程で享受できるはずのさまざまなメリットやチャンスを逃してしまう学生も少なくありません。古くからある徒弟関係が今なお影響力を持ち続け、学生の将来の可能性に影を落としているのです。

専門家によれば、私たちは過去の記憶を頼りに未来を予測する傾向があるため、未来に対するイメージが実はノスタルジックなものになってしまうことが多いのだそうです。SF映画を例に考えてみましょう。私は1920年代に公開されたSF映画「メトロポリス」が好きですが、そこで描かれている未来都市は1920年代のシカゴの街を彷彿とさせます。確かに、その映像は未来というより、むしろ、当時の人々の考え方や行動を映し出しているように見えます。

将来に思いを巡らせることは、私たちが健康で幸せに生きていくうえで欠かせません。将来こうなりたい、という思いが今の私たちの生きるモチベーションになるのです。PhD課程は、このモチベーションを高める場所であるはずです。しかし現実はどうでしょう?学術界の古き慣習から抜け出せず、ノスタルジーにどっぷりつかった研究室が実に多いのです。

PhD学生に対する指導方法は今も昔も変わりません。学術関係者ばかりが読む学術雑誌(ジャーナル)への論文投稿を優先させ、一般の人の意見を気にしないという姿勢はいまだに強いのです。そして世界中で開催される学会(これも学術関係者ばかりが集まるものですが)に参加することを勧めています。こうしてガラスの天井に挑むこと、産業界につながる研究を行うという俗物的考えを持つことを押さえ込むのです。学術界以外で仕事を獲得するのにつながる技術的スキルの獲得を犠牲にしてまで、あくまでも「学術界のためになること」、つまり学術出版の競争において一翼を担う知識を提供するよう奨励するのです。学術界の外に出れば、何本論文を書いたかなんて誰も気にしないのに。

PhD学生は、こうした日々を過ごすうちに自分のキャリアに役に立つかもしれないこと、例えば、弁論大会に参加する、ブログを書く、ポッドキャストやドキュメンタリーを配信する、商業的なアイデアを発案する、教えるといったことに対して、興味を失っていきます。やる気を喪失させるのには2通りのパターンがあります。

1)わかりやすいパターン:「非学術的な」ことは「時間の無駄」と言われる、あるいは専門スキルを獲得するために時間を費やすことを妨害される

2)表面的にはわかりにくいパターン:

学術論文を書き、学会に出席するといった学術的にあるべく姿だけを示唆される

後者、研究者として「模範的な」姿を示唆される方が、一見わかりにくいけれども効果的です。多くの研究者は、研究室の学生が幅広いスキルを身につけることは大切だとわかっていますし、PhD学生のうち研究職に就けるのは、半数にも満たないことも知っています。もちろん、分野によって研究職に就ける数はさらに少なくなることも。彼らはあなたが研究者となることをサポートしてくれるでしょうし、優れた指導教官の中には、大学院生が3分間スピーチ(3MT)コンテストに出たりブログを書いたりすることを積極的に勧める人もいます。逆に、学生に良かれと考えてブログ発信や非学術的な活動を勧めない人もいます。

だからと言って、そのような指導教官を責めるのはお門違いです。彼らは、論文を書かなければ所属大学の評価が下がってしまうことを重々承知していますし、自分達の研究費を確保するためにも論文を書かなければなりません。この点では、すべての研究者は学術システムの犠牲者とも言えるのです。しかし、このシステムが続く状況ではPhD学生が社会に通用する専門スキルを磨くために時間を費やすことは難しいため、私のような者の奮闘が続くのです。PhD学生は優秀だから、身の回りにある成功事例に追従する以上の行動を期待しています!

>> 続き(3部作コラム・2本目)はこちら

>> 原文を読む:https://thesiswhisperer.com/2020/05/13/stop-letting-the-ghosts-of-old-academia-haunt-you/

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