論文出版のスピードと信頼性は両立できるのか

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の治療および感染拡大抑制のため、関連する研究論文の公開が急加速で進んでいます。大手出版社も含めた多くの出版社や研究機関が情報公開に踏み切り、関連論文のオープンソース化が進むと同時にスピード化も促進され、従来の査読付き学術雑誌(ジャーナル)ではなくプレプリントサーバーへの投稿が急増しています。COVID-19に関する新しい情報をより迅速に得ることが重要であるとはいえ、膨大な量の情報処理に追われる、研究の信頼性が保障できないといった問題も生じています。いくつか挙げてみます。

  1. 成果を急ぐあまり研究の品質が軽視される、あるいは精度(正確性)が失われる可能性(信頼できる調査結果と品質が保障されないデータが混在する恐れ)
  2. 査読プロセスのスピード化に伴う学術雑誌(ジャーナル)出版の信頼性の低下
  3. 誤解あるいは誤った情報の拡散
  4. 良質・悪質問わず多数の論文が投稿されることで生じる物理的なオーバーフロー
  5. 科学の信頼性、再現性の問題の複雑化

研究スピードと発表の問題

従来、医学・薬学研究は、新しい治療薬やワクチン開発、治験などいずれの研究においても時間をかけて慎重に行われてきました。研究デザインの構築、被験者の選択と結果の分析、バイアスによる影響の検討などには多くの時間を要しますが、今、研究者は少しでも早く結果を出そうと研究を急いでいます。

学術ジャーナルに投稿された研究論文は、査読プロセス(そのプロセス自体の問題を指摘されることがあるとは言え)を経ることによって一定の品質が保証されていました。しかし、このパンデミック下でジャーナルも査読の迅速化を図っています。従来は数か月を要していた査読をスピードアップし、概ね2週間以内に出版しているのです。その結果、低品質な出版物が増えたとの指摘も出ています。さらにプレプリントでの発表増加が、これに拍車をかけています。プレプリントには、多くの研究者が自由にアクセスし、早期に新しい発見を共有することができるというメリットがある一方で、査読を経ていないことで研究の質が担保されないとのデメリットがあります。

もちろん、COVID-19の世界的感染拡大を一日も早く収束させるためには、良質な研究をできるだけ早急に公開することが重要です。しかし、急ぎすぎた研究、出版は有害な問題を引き起こす可能性も有しているのです。

期待に反してリスクを増加させることも

一時期、米トランプ大統領がCOVID-19の治療に有望だと売り込んだ抗マラリア薬ヒドロキシクロロキンは米食品医薬局(FDA)の不足薬品リストに加えられるほど需要が拡大しました。自身も予防薬として飲んでいると発言して話題になっていたので耳にされた方もいると思います。しかし、この薬のCOVID-19への効果は未確認で、FDAは深刻な副作用があると警告しています。医学雑誌ランセットとニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)に掲載された論文には、ヒドロキシクロロキンはCOVID-19の治療に有効などころか、感染者の死亡リスクを高めると書かれていましたが、データを提供した会社の透明性に疑問が持たれ、調査の信頼性に疑問が持たれた結果、撤回されました。この論文に関する問題は査読で特定されなかったため、緊急時に大量に提出された論文に対する査読が甘くなってしまったのではとの指摘も出ました。

正確さとスピードのバランス

COVID-19の研究者が研究論文の発表を急いでいるだけでなく、ジャーナルも査読プロセス迅速化を図っていることが、前述したような問題を生じさせる要因となっているのです。また、投稿された論文がメディアで「誤って」解釈されて世間の注目を集めてしまった例もあります。「コロナ陰謀論」を耳にしたことはありませんか?プレプリントリポジトリbioRxivに投稿された「新型コロナウイルスにHIVタンパク質に似たものが挿入」されているとの趣旨の論文は、コロナ陰謀論を裏付けるかのように拡散されましたが、論文にはそのようなことは書かれていませんでした。著者が撤回を表明した際に「HIVタンパク質類似のものが挿入」しているに過ぎず、「人為的な挿入」とは主張していないとコメントしています。論文に誤りがなくても、著者にそのような意図がなかったとしても、誤解されやすい表現が誤って伝達されるリスクがあるのです。

一方で、プレプリントと出版物で論文の捉えられ方に違いあることも確かです。出版された論文は、一般的に発表前に査読プロセスを経ていることから「正しい」と受け取られる傾向が高いのに対し、発表後に読者による精査を受けるプレプリントは慎重に受け取られる傾向があります。論文に問題があると指摘された際、撤回するまでの時間にも差があります。例えば、前述のヒドロキシクロロキンの論文は5月22日にランセットに掲載され、6月5日に撤回。bioRxivに掲載された論文の場合、1月31日に投稿され、2月2日に撤回されています。出版された論文の修正、撤回は簡単ではありません。出版社は、調査を行った上で、理想的には著者の合意の上で撤回を行います。一方のプレプリントサーバーは、更新版の投稿が簡単であるため、問題の迅速な解決を図れますし、研究上の問題が明らかな場合には該当論文を即削除することも可能です。

だからと言って、出版とプレプリントのどちらがより信頼できると言えるものではありません。2つの公開方法があり、迅速な情報共有が求められるパンデミック下では、発表までの時間の短い方法が多用されているということです。いずれにせよ、研究の成果、新しい知見を得るための研究者の努力を、メディアを含めた周囲がすべて正しく理解できるとは限りません。研究成果の迅速な公開は科学研究を加速させますが、慎重さを欠いた性急すぎる公開は、修正・撤回につながる可能性が捨てきれません。研究者は論文を公開する前に、研究の信頼性を高め、誤解を生むような表現を避けることも含めた細心の注意を払う必要があります。そして、読者は発表されたすべての論文が「正しい」と解釈してはならないと覚えておくべきでしょう。まずプレプリントサーバーに投稿し、多くの研究者からのコメントや批評を踏まえて改訂した原稿を後に学術ジャーナルに投稿するというアプローチは、できるだけ多くの研究をできるだけ多くの人により早く見てもらうために有効です。ジャーナルかプレプリントサーバーか、査読付きか査読なしか、選択肢が増えることは良いことでしょう。

科学の質を守るための取り組み

いくつかのプレプリントサーバーは、投稿論文に対する従来からの審査プロセスを強化しています。bioRxivは前述の論文撤回以降、陰謀論に悪用されかねない論文のスクリーニングにも注意を払っており、スクリーニングで疑問が持たれた論文は、より専門的有識者によって精査されます。AIによる自動検索ツールを使ってノイズを除去する動きも出てきています。また、全米科学アカデミーと世界保健機関(WHO)は、COVID-19関連研究の支援を目的として、CORD-19データセット(COVID-19を含むコロナウイルス類に関する学術論文のメタデータ)を分析するためのツールの開発を進めています。データマイニングや文献レビューへのAIの活用が進めば、膨大な研究論文の中から研究者が関心のあるデータ、必要な情報を収集するには大きな助けとなることでしょう。

膨大な数の論文が発表される中で

5月13日のScienceの記事によると、1月以降、それまでに発表されたCOVID-19関連の研究論文は2万3千本以上。20日ごとに倍増しているそうです。この量を見ると、研究者が研究を急ぎ、懐疑的な論文であっても発表してしまう傾向があると言われても否めません。これではどんな研究者もついて行かれないでしょう。パンデミックによってスピードが優先された結果、科学研究の重要性が強調されることとなりました。研究者はタイムリーで信頼性の高い研究成果を提供したいと意欲を持って研究に取り組んでいますが、急ぎすぎるあまり正確さと信頼性を犠牲にすることがあってはなりません。もちろん、一日でも早くCOVID-19の感染拡大を防ぐことは重要ですが、新しい情報を迅速に提供することと信頼性を維持することのバランスを保つ必要があるのです。

ツール紹介

CLARA:新型コロナウイルス感染症(COVID-19)研究のAI検索ツール(リンク


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