被験者の人権保護と“Do the Right Thing”の難しさ

第二次世界大戦中のナチスによる人体実験を教訓に生まれた「被験者の人権保護」という思想は、その後、医学実験における人権保護を念頭に、70余年の月日を経て、現在のかたちへと一般化されてきました。たとえば世界医師会が制定した「ヘルシンキ宣言」などがその一例です。その内容の多くは、「研究者は、被験者が実験に参加するかどうか決める前に、その実験のあらゆるリスクについて説明しなければならない」とか、「被験者の個人情報は守秘されなければならない」など、現在は常識化し、実験にかかわらない一般人にもよく知られている事項が少なくありません。
しかし、簡潔にみえる被験者の人権保護も、実際に研究を始めると一筋縄では行かないのが現実です。国内でごくまれな難病を背負った人に実験参加を依頼した場合、「50代女性」といっただけで誰のことかわかってしまうこともあるでしょう。また特殊な方言を話す人たちの会話を録音した場合、その会話を言語学の学会で、不特定多数の聴衆を前に流してもいいのでしょうか?人類学などでは、被験者(研究対象)の身振り手振りが研究の理解に不可欠で、ビデオデータを公開できなければその価値が半減してしまう研究もあるでしょう。過激にビジュアル化していく昨今の研究発表の流れの中で、本当の意味での人権保護は、今後もどんどん困難になっていくでしょう。
また、被験者や研究に協力してくれた人たちの匿名性と人権の保護は、その研究が発表されたらすぐに、研究者の力の及ぶ世界から、まったく予期しない世界へと広がっていくことも忘れてはいけません。研究が複雑になればなるほど、ほかの分野の有識者に助言を求める場合が多くなります。その有識者の名前を明らかにすれば、その人の株が上がる場合もあるでしょうが、研究結果によっては、非難が集中する場合も考えられます。一度公開された情報を撤回することは不可能に近いものがあります。被験者の了解を得たからといって、気軽に研究に協力してくれた人の情報を公開することは控え、どのようなリスクがあるか、詳しく検討し最善策を考える必要があります。どの程度の匿名性が最適なのかは、その研究分野や研究内容によって違うでしょう。
まず基本的なこととして、自分が所属する研究機関や学会が、研究者が守るべきことをまとめた「倫理指針」や「ガイドライン」を定めており、そのなかで「倫理委員会」へ研究計画を提出して、研究実施の認可を得ることなどが定められていることがほとんどのはずなので、それらをじっくりと読んでから対応してください。また、国(たとえば厚生労働省文部科学省など)も、さまざまな指針やガイドラインを設けていますので、チェックしてください。
必要であれば、アメリカの大学のウェブサイトにアクセスして、「human subject」などをキーワードにして検索して見つかる文書を読んでみることもよいかもしれません。ほとんどの大学では「被験者保護委員会(Human Subject Committee)」や「研究責任局(Office for the Responsible Conduct of Research)」といった専門機関を設置し、被験者の人権保護問題に関するテストや例題を提供しています。
ただしどのような場合でも最も重要なことは、こうした倫理指針やガイドラインをチェックシートのように機械的に利用するのではなく、一研究者としてあらゆる可能性を考えて最善を尽くすこと、そして、人権保護のためにどれだけのリスクを背負う心積もりがあるか自問し続けるということです。最新情報をもとに、自分の研究がおかれた状況を考慮し、研究者として当然のこと“Do the Right Thing(人として正しいことを為しなさい)”を全うするよう、心がけてください。

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