翻訳ツールにできること、人間にしかできないこと

この10年ほどの間、まさに目覚ましい進化を遂げたIT技術により、世の中はとても便利になりました。特に、PCの普及というハード面からアプリケーションの多様化というソフト面での拡充により、携帯電話やオンラインショッピングなど、かつては夢物語でしかなかったコミュニケーションが現実化しています。

これと同時に、翻訳に関連する技術も進化してきました。その一つがCATツール(Computer-Aided Translation tools:コンピューター翻訳支援ツール)です。今回は、CATツールの利便性、そして限界に焦点を当ててみます。

■ CATツールとは?

まず、CATツールとは何かという基本に立ち返ってみましょう。

CATツールとは世界中で利用されている翻訳支援ソフトウェアの総称で、専用のデータベース(翻訳メモリ)に訳語を記憶し、テキスト中に同一もしくは類似の用語が出てきた際にデータベースに登録された訳語を再利用できるようにし、翻訳作業のスピードアップと生産性の向上を図るものです。品質の維持と効率化が図れることから、グローバル市場向けの翻訳やローカライゼーションには、CATツールの使用が発注条件になっているものも見られます。大量の情報を短時間で翻訳するためには、ツールの活用が不可欠になってきているのです。とはいえ、CATツールの利用だけで翻訳の質が保証されるのでしょうか?

■ CATツールにできること-翻訳メモリで作業を短縮&効率化

CAT ツールは、翻訳者の効率的な業務遂行を支援するものです。CATツール上では原文が細かい分節に区切られ、訳文が、いわゆるTM(Translation Memory:翻訳メモリ)に保存されます。以後、テキスト中に同じ語句を含む文章や類似の文章が出てきた場合、文節単位でTMから訳文を転用することが可能になります。 繰り返される部分があれば自動的に訳文案が挿入されるため、翻訳者は語句の検索やコピー&ペーストの負担から解放され、結果として作業時間の短縮および訳語の統一につながります。

CATツールを通じて辞書や専門用語事典の照会もできるため訳語の正確性も増し、用語集の作成に時間を取られることもありません。同時に、複数の翻訳者が作業に関わる場合でも用語の整合性が確保できるのです。用語だけではありません。原文を訳しやすいように分割し、原文と訳文が並列に記載されるバイリンガルファイルを作成してくれるので作業の効率化も図られます。

しかし、このように有用なCATツールでも、万能とは言いがたい部分があるのです。

■ CATツールにまだできないこと-文意の再構築

Web上の無料翻訳ソフトを利用して「なんじゃこりゃ」という訳文が表示されたことはないでしょうか?時に笑いがこみ上げるほど変わった訳に遭遇することがありますが、自分が理解できる言語以外の訳出を試みた場合、それが正しいのか間違っているのかはわかりません。オリジナル言語の文意を正確に他の言語で再現できるほど翻訳ソフトが進化しているとは言いがたいですし、言葉のニュアンスまで考慮した翻訳をするのはほぼ不可能と言ってよいでしょう。

翻訳メモリを内蔵するCATツールを使う場合でも、同様の問題は避けられません。最終的に高品質な翻訳を実現するには、専門家による翻訳と校閲、ネイティブチェック、さらにクロスチェックなどが不可欠です。

ここで重要なのは、翻訳の正確性とは、必ずしも一語一語を他言語に置き換えることではないということです。つまり、翻訳には言葉の置き換え以外に、文脈、句調、コンテクスト(前後関係、状況、背景など)、読者層への配慮が必要とされます。コンテクストには、敬称の接頭辞(「様」や「-ちゃん」など)や日本語の言語使用域(レジスター。「話し言葉」と「書き言葉」や性別、年齢などの使用状況、場面、目的などにより言葉を使い分けること)などが該当します。慣用句(イディオム)や格言、ことわざも単語どおりに訳したのでは意味が通じないので、翻訳の過程で再構築する(翻訳先の言語で同意の言い回しを見つけるなど)必要があります。 例えばフランス語で「のどが詰まる・声がしゃがれる」という意のイディオムは “j’ai un chat dans la gorge” 「猫がのどにいる 」となり、これが英語では “having a frog in one’s throat” 「カエルがのどにいる」となるとのこと。日本語には「のどから手が出る」という表現がありますが、これも外国語に直訳すると、怖い話になりそうです……。

このように、翻訳には言葉の置き換え以上のことが要求されるため、 CAT ツールあるいは翻訳ソフトを利用して 作業を効率化または簡略化できても、品質の向上には限界があります。あらゆる言語のコンテクストやイディオムなどがデータベース化され、AI(Artificial Intelligence:人工知能)による比較分析が瞬時にできるようになれば改善される可能性もありますが、人の手を介さずに洗練された高品質な翻訳が実現されるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。

■ 翻訳者(人間)ができること、翻訳者にしかできないこと

最後に、翻訳者にできること、翻訳者にしかできないこととは何か、考えてみましょう。

翻訳とは、ただ単に2言語間のギャップを埋めるものではなく、2つの言語を、文化的背景を考慮しながら「橋渡し」をすることではないでしょうか。言葉の置き換えであれば、機械が瞬時にやってくれます。しかし多くの場合、単純な逐語訳では真意が伝えられず、表現の仕方によっては相手に不快感を与える恐れすらあります。文法や単語を理解する以上に、その国の歴史や文化に裏付けられた表現手法を理解し、形にしなければならないのです。この点こそが、翻訳者(人間)にしかできないことではないでしょうか。

本当に質の高い翻訳であれば、ターゲット言語においても、元からその言語で書かれていたかのような流暢な文章を再現できるものです。CATツールが翻訳のスピードを格段に早めてくれるのは事実ですし、単純な内容かつ繰り返しの多い文書であれば、その質は人間に匹敵するでしょう。しかしそれだけで完成とは言えません。経験豊かで、双方の言語のみならず文化にも習熟した翻訳者(人間)の才能は今でも、これからも、必要とされているのです。

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